きのうのこと
親戚のうちで集まり。母方の祖母の家です。
前日に祖母から「明日ごはんたべにこい」つって電話がかかり、たまたまうちのがみんな家にいる珍しい日だったこともあり、「全員で行く」と返事をする。
この時点で客は10人である。これだってたいがいだが、
祖母の妹である大叔母を加え、11人で訪問したところ。
叔父。その妻であるところの義理の叔母。そのお兄さんとご両親。従妹。そのダンナさん(新婚)。その子供(5ヶ月)。ダンナさんのご両親(お初にお目にかかりました)。
亡くなった祖父の妹は二人いて、そのうちの1人とその息子さん。来られなかったもう一人の妹さんのところからは息子さん夫婦。
これだけのメンバーが、この日の午前中に集められ、大宴会だった。
えらいことだ。総勢何人よ?
運転手の除くすべての大人があほほど呑み(わたしは運転手☆<珍しい)。年寄りの昔話を聞き、大変おもしろうございました。
新婚夫婦の結婚写真がでてきたところをきっかけに、祖母が昔の写真を出してきた。
わたしや妹、従妹弟たちの結婚式成人式七五三の写真は当たり前、うちの両親や、祖父母大叔父大叔母の結婚写真。とかものすごい量で。
祖母の女学校の卒業アルバム。表紙をめくると、一ページ目にもんぺ姿の女学生たちが校庭で竹やり構えてますさ。
セーラー服にもんぺの祖母と同級生は、卒業し、呉に挺身隊とかゆってひこーき作りにいく。
祖母の実家は福山市。
そこからわざわざ呉の姉のところまで面会にでかけたのが大叔母とその母である曾祖母。
帰りの汽車が空襲ひどいってんで三原だか糸崎あたりで止まってしまい、一晩かけて福山まで歩いて帰ってきたそうだ。しかも食べ物なんかは姉に差し入れあとなのでろくな持ち物もなく、おなかはすくわ、のどがかわくわ。夜のピクニック・・みたいな爽やかな青春話じゃないぞ。
同行していた人がなぐさめに仁丹をくれるも、そんな状態で食べたらもう口中いっぱいに仁丹の味がのこって気持ち悪くなって、いまだに大叔母は仁丹が嫌い。
とゆーはなしはこーゆーときの大叔母の十八番なのだが、祖母は「そんな話は知らん」と切り捨てた。そーゆー人だ。
で、祖母が呉から、謎のきのこ雲を見たとゆーはなしは前にも聞いたが、この挺身隊の同窓の1人が当時広島市内の病院で看護婦をなさってたそうで、この女性は大変鼻の低いひとだった。
あの夏の日の朝、例のアレによって、病院が崩れ、顔も服もやけこげ、ほうほうの体で逃げ出し、朝なのでその辺の民家に干してあるもんぺをくすねて着替え、仲間のもとに戻って。開口いちばん「なあ!わたしの鼻無くなってない!?」と聞いたら仲間は「アンタの鼻なんかあろうがなかろうがかわらん!」と答えた。「だからってなくちゃ困る!」
で、終戦ね。
戦後の写真はすげー。洋裁の師範学校時代の写真。まあ、ほんの数年違いなのに、服がことごとくおしゃれになってる。髪型も全員カーラーできっちりセットしてる! 美容院からいま帰ってきましたみたいな頭。50年代風のあれですね。まいにち寝るときにまいてたんだって。見習わなければならんよ女として。わたしの寝起きあたまのヒドイことといったら・・。そのまま午前中を過ごしてたりするし。
でまあ、この辺までの時代の話は、集まりのたびにちょこちょこ聞いてたりしたんだけどさあ。
今回お初にお目にかかった従妹ダンナのお父さんがうちの父と、大学が同じことが判明し、60年代以降の話でもりあがったりしてて。学生運動あたりの話なども・・。
今後とも末永くお付き合いさしてもらって、わたしにもっと面白い話を聞かせてほしいなと思った今日この頃。
追記:今回父よりも母がえらい勢いで呑んで、もう連れて帰れないくらいになり、置いてかえってきた。こーゆーことが、10年に一度くらいある。前は妹の結婚のときだったなあ・・。母が潰れると、わりと父がしっかりするので結果オーライ