違和感

先日参観日がありました。息子のクラスは保健体育の授業。
つか、参観授業に性教育もってくるのが最近のハヤリなんでしょうか。かなりよくあるよーな気がするよ。前は娘のクラスがそうだったし、去年度の最後の参観日も保健体育だった。命の大切さやら、セクハラの防止やら、そーゆーことを低学年のうちから叩き込むわけですね。概ねいい授業をしてくださると思うし、親としても勉強になりますよ。去年の息子のクラスでは、胎児の成長を説明して、それから先生が「○がつ○にちに○○くんがうまれましたー」ってクラス全員の誕生日を順に言ってくれたの。そしたら子供たちが自然に拍手とかしてさ、結構感動モノだった。

今回のテーマは「大きくなる体」。大人になるまでに男女別にこーゆー成長をしますよ、ってな授業。それはいいんだけどな、まとめ部分にすこしばかりの違和感を覚えました。
「人の成長には個人差があります」
まったくだ。
「大きいとか小さいとか言われると傷つくよね? だからそんなことは言わないようにしようね」

 この授業の裏テーマはいじめ防止だったのか。まあそれでもいい。いじめは深刻な問題ですよ。わたしは子供に人を傷つけるような無神経な人間になってもらいたくない。それは切実にそう思う。
 でもね、でもなのよ。
「体のことを言われると傷つくよね?」っていう前提が気に入らない。わたしは子供に無神経な人間になってもらいたくないと思うのと同時に、くだらないことで傷ついてくよくよ悩むような人間にもなってもらいたくないのよ。

 コミュニケーションがうまくいかなくて人間関係にヒビが入るのは、そこでなされた会話の内容が原因と決め付けられるもんじゃないと思う。全く同じ内容の会話でも、当人同士の関係やらそのときの言い方やらで、良くも悪くもとれる。好きなひとに好きって言われりゃ嬉しいが、嫌いなひとに好きって言われるととても困るのと同じことではなかろーかと、そう思う次第ですよ。

 体のことを言うと傷つくかもしれないから、言わないようにしよう。そういう風に考えるなら、その前提を変えるだけでどんどん会話の幅を狭めてしまうだろう。出身地とか、名前とか、宗教とか思想とか嗜好とか‥‥何せ相手が傷つく種がどこにあるやらわかんないからな。あー、もうめんどくせ、関わらないようにしよ! とか思うのはどっか問題がないですかね? いじめ防止とマスコミの言葉狩りみたいなものと同列にしてる気がするんだよね。

誰かが傷つくかもしれないから、この言葉は放送禁止。

それはまあ(いろいろ問題もあろうが)不特定多数を相手にしてる場合のみ有効。でも「クラスの○○くんと僕の関係」とは無関係なんじゃない? 名前も顔も知ってる○○くんとの信頼関係を築くためにはケンカもときにはアリだと思うんだよう。傷ついたなら傷ついたと言えてはじめて、言ったほうも言われたほうも学べるんじゃないかなー・・・。